現場の困ったを、笑顔に変える仕事昔の話をしよう
手元に一枚の古い基板がある。三菱のメインフレームから機器更新のときにもらってきた記念の板だ。白いセラミックの塊を何十個も並べてやっと一つのCPUだった時代。COBOL、緑の画面、テープの掛け替え。道具は変わり果てても、やっていることは40年前と同じだと気づいた話。
昔の話をしよう。
手元に一枚の古い基板がある。
机ほどもある大きな板の上に、白いセラミックのパッケージが格子状にびっしり並んでいる。よく見ると、白い四角ひとつの中に小さなダイ(半導体チップ)が四つ載っている。三菱電機のロゴと、製造ロットを示す刻印。左下には ACAU ACMU ACRM といった三文字の記号。たぶん演算やメモリといった機能ごとの区画である。
カスタムのLSIを何十個も並べて、ようやく一つのCPU。 今なら爪の先ほどのシリコン一片に収まる論理を、この一枚でやっていたのだ。

三菱の大型機、いわゆるメインフレームのプロセッサボードである。持つとずしりと重い。ずしり、である。この一枚が私の家に来るまでには、少しばかりの巡り合わせがあった。
去年、床下から出てきた
正直に言うと、この基板が私の家にあるのは去年からだ。
役目を終えたあと、この板は捨てられずに、長いあいだ電算室のフリーアクセスフロア——配線を通すために床下へ空間を設けた、あの二重の床——の下で眠っていた。誰の目にも留まらないまま、何年も。埃をかぶって、である。
見つけたのは現場の後輩たちだった。床下の作業か何かのついでにこの重い板を引っぱり出してきて、「これ、昔のですよね」と私に見せてくれた。
その瞬間である。記憶が、どっと蘇ったのは。
吹き荒れる空調も、緑の画面も、掛け替えたテープの夜も、後輩が差し出したこの一枚からなだれ込むように戻ってきた。彼らにとっては「よくわからない古い板」でも、私にとっては自分の若い日々そのものである。
だからもらって帰った。今、こうして家にある。この記事も、あの床下からの一枚がなければ書かれることはなかった。
あの頃の質感
1980年代の後半から90年代。私はこの手の機械を、確かに使っていた。
言語は COBOL。日中は端末をぶら下げてタイムシェアリング、夜はバッチ処理を流す。CPU の使い方を人間が時間割で管理していた時代である。「ネットワーク」なんて言葉はまだ身近になく、同軸ケーブルか、あの太い黄色い光ケーブルで機械同士をつないでいた。画面は緑色の文字。GUI もマウスもなく、ファンクションキーで画面を送る。カーソルがカクカク動く、あの残像を今でも覚えている。
計算機室には空調があった。ただし今の冷房のような静かでひんやりしたものではない。強い冷気の風が吹き荒れる、でかいパッケージエアコンが鎮座していた。ゴーッである。あれは人のためではなく、機械のための部屋だった。夏でもカーディガンが要った。
二つの世代、二つの標準
私が触ったのは、独自路線の世代と、その後継——より広く普及したアーキテクチャに寄せていった世代——の両方だ。
前の世代は、独自のジョブ制御言語で書いていた。記号ひとつ取っても後継とは流儀が違う。磁気テープは、二つの円盤がクルクル回る、映画に出てくる「コンピュータ」そのもの、いわゆるオープンリールだった。テープが真空カラムでバタバタ暴れる、動作が目に見える機械である。
後継の世代では、テープはカートリッジになった。リールは一つしか見えず、その代わり装置にプシュッと吸い込まれていく。 同じテープでも、見た目だけで世代交代がわかった。ジョブ制御の記号も変わった。慣れたものを取り上げられて、新しい流儀を覚え直す。感想はひとつしかない。慣れるしかない、覚えるしかない。 理屈より先に手が覚える世界だった。
標準化の戦争は大型機の外でも起きていた。パソコンの黎明期、CP/M と MS-DOS のどちらが世界標準になるか。 最初のパソコンは CP/M だった。8インチの、あのペラペラで大きなフロッピーディスク。手に持つとしなる。しなるのである。今でこそ結果を知っているが、当時は本当にどちらに転ぶかわからなかった。技術の優劣ではなく、契約と巡り合わせで標準が決まっていく。それを現場で見ていた。
制約が、様式を生んだ
主記憶は 2MB だった。今のブラウザのタブ一つにも満たない。
だからプログラムのインデントはタブか、空白一文字で詰めた。桁を無駄にする贅沢は、そもそも発想になかった。今の若い人は「なぜこんな詰めた書き方を」と言うかもしれない。答えは全部この 2MB にある。あの白いセラミックの塊を何十個も並べて、やっと動く機械の、その乏しいメモリを守るための作法だった。制約が、様式を生んだのである。
ちょうどこの頃、構造化プログラミングが現場に降りてきた。「GO TO を書くな」。飛び先が追えなくなるスパゲッティを、入口一つ・出口一つの構造に組み替える。段落を呼び出すやり方に切り替えて、コードは追えるものになっていった。私がプログラムにのめり込んでいったのもちょうどこの頃だ。バッチを流す側から、少しずつ、書いて直す側へ。
紙と、待ちと、掛け替え
情景は、今でも鮮明である。
大量のプログラムをドットインパクトプリンタで出力して、机いっぱいに広げて赤ペンで追い、確認したらバサッと捨てる。ガガガガ、という印字音。しかも打ち終わったのにプリンタはまだ動き出さない。キーボードは先行し、印字はキューで遅れて始まるのだ。処理と出力が非同期。じっと待つ。そのうちガガガガと動き出す。
そして、コンソールにふいに現れる ABORT の文字。
いつの処理だ! ジョブ番号を見て、さっきの自分のか、まだ残っている夜間バッチのものか、と青くなる。一行の手がかりから犯人を推理する、探偵仕事である。
毎週のバックアップも、テープ処理だった。マウント要求が出る、掛ける、巻き終わる、次を掛ける。その繰り返しで三時間ほど、ただテープを掛け替えるだけの残業をしていた。人間がテープチェンジャーである。テープが巻き終わるのをただ待つ夜の計算機室、聞こえるのは空調の風の音だけ。データを守るというのが肉体労働だった時代の話だ。
元号と、西暦二千年
日付にまつわる二つの出来事も、この機械たちの現役の最中にあった。
元号の変わり目。 日付を持つプログラムは、和暦の扱いをすべて見直すことになった。そして西暦二千年問題。 年を二桁で持ったのは、当時のメモリとディスクが一バイトでも惜しかったからで、決して手抜きではない。あの重い基板の写真そのものが、「なぜ二桁にしたのか」の答えになっている。自分たちが撒いた種を、自分たちで刈り取った。
面白いのは、これが過去の話で終わっていないことだ。元号変換も、日付の扱いも、今の自治体システムでまだ続いているテーマである。次の改元でも、同じ苦労を繰り返した。三十年経っても、本質は何も変わっていない。
やっていることは、同じだ
道具は変わり果てた。オープンリールはカートリッジになり、カートリッジはスナップショットになった。独自のジョブ制御は広く普及した流儀に呑まれ、その流儀すらもう見なくなった。2MB は何GBにもなり、テープを掛け替える夜は消え、ABORT の犯人は一瞬でわかる。表層は原形をとどめないほど変わった。
あの頃の自分に今の環境を見せたら、なんと言うだろう。「速いね」で済むだろうか。いや、人は本当に驚いたとき、あんぐりするだけで言葉にならないのかもしれない。当たり前だと思っていた苦労が、まるごと消えているのだから。
それでも、と思う。やっていることは、きっと同じなのだ。
2MB を守るために空白一文字で書いていた頃も、今このシステムで日付や所属や決裁の「困った」を一つずつ潰している今も、同じ仕事をしている。使う石が、机ほどの筐体のあの白いセラミックから、手のひらのシリコンに変わっただけだ。
夜中にテープを掛け替えていたのも、翌朝「バックアップは取れている」で誰かが安心するためだった。ABORT の犯人を探したのも、朝一番に帳票が出て、窓口の人が困らないためだった。ずっと、画面の向こうの誰かの顔を見て仕事をしてきた。
言葉にすれば、こうなる。
現場の困ったを、笑顔に変える仕事。
「なくす」でも「楽にする」でもなく、笑顔に変える。 困りごとを消すだけなら±0だが、笑顔はプラスである。マイナスをゼロにするのではなく、ゼロを超えさせる。
この言葉を口にしたとき、対話の相手だった AI は、「エンジニアリングの本質を、これ以上短く言った定義を知らない」と返してきた。言ったのは自分でも、そう返されて初めて、四十年やってきたことに名前がついた気がした。妙な話である。四十年かかって出てきた一行を、その場で受け止めたのが機械なのだ。
だから、もらってきたあの基板をただの懐かしいガラクタだとは思っていない。あれは、「現場を笑顔に変える」という同じ仕事を、四十年前の道具でやり切った証拠である。あれを持っている限り、話は地続きなのだ。
AIとの協働作業での学び
この記事は、実は AI との雑談から生まれた。一枚の古い基板の写真を見せて「これがなんだかわかりますか」と振ったところから、記憶をたぐる対話が始まった。テープの掛け替えも、ABORT の一行も、8インチのしなる感触も、話すそばから AI が受け止め、時代の背景を補って返してくる。忘れかけていた質感が、対話の中で像を結んでいった。
面白かったのは、最後に私が「やっていることは、きっと同じ」と言いかけて、うまく言葉にできなかったときだ。その先を一緒に探してくれた。出てきたのが「現場の困ったを、笑顔に変える仕事」である。四十年分の記憶と、目の前の仕事が、一本の線でつながった瞬間だった。
新しい道具は速いだけではない。古い記憶を、意味のある形で残す手伝いもする。 記憶があるうちに書き留めておこう。そう思って、この一本を残した。道具が変わっても、何を作るかを決め、正しさを確かめ、世に出す責任を負うのは自分だ。そして、その先にある誰かの笑顔を思い描くのも、やはり人の仕事である。そこは動かさないでいたい。
……ところで、あの基板は今も机の脇に立てかけてある。掃除のたびに邪魔で、しかも重い。家族の評判もすこぶる悪い。だが捨てる気はまったく起きないのだから、しかたがないのである。